20151219

20151218

きょうの夕方、
3分間だけの空




こんなの見せ付けられたら
良いことも悪いことも、
全部ふっとぶ、
でしょう


何回転したのだか、わからないけど
地球はよくできてるな

とんでもないな


20151128

20151208

この前、数年間過ごしたところに行く機会があった



昔住んでた家の近くにあったすべり台とブランコとシーソーと大きな桜の樹がある小さな公園は、家を建てるために更地になっていて


その光景が飛び込んできた瞬間、遠くから遊びに来た友達と桜の樹の下でふざけて撮った写真のことを思い出して、重さは一瞬で変わった


ついこの前、その写真が偶然出て来たって連絡があったばかりだった


分譲されるべく更地の上に建つであろう新しい家は皆んなきっと同じ形に四角い、公園は使われて古びて丸かった








一瞬一瞬を捕まえてかないと置いてかれる
瞬間に感じ取れる感覚をより豊かにしたい




\\\\\\\\\\\\\\\\




きょう、ふと、ダンスと手話は似てるなと思った



ダンスに言語的な側面を求めた時、手話同様にざっくり視覚言語にもなるのかもしれないし、そのまま身体言語となるのかもしれない



身体という言語を通じて他者になにかを伝えようとする行為



言葉を口に出してなにかを伝えようとする時、それは音という別のかたちに変換された状態で空気中を媒介していく

でも認識する側でまた言葉に戻す処理を伴うから、結局は聴覚言語も個人の持つ言葉に対する理解や感覚にひっぱられる部分が大きい

文字を読むのは視覚言語だけど、勿論言葉を考慮した認識だし、認識する際に頭の中で音声に変換する処理も伴うのだった気がする


一応音声言語に通訳できる手話はまだしも、言語として体系化されていないであろうダンスに至っては、そういう処理が必要ないから、とても純粋な状態で相手になにかを伝え、相手からなにかを受け取ることができるのではないだろうか



言葉に慣れた自分たちにとっては、とてもぼんやりしたなにかだけど、言葉では伝わりきれないその他の大部分を内包してるのだろう








意味を求めずに
そこにある行為をそのまま受け入れようとする


と、したい



dance dance,
otherwise
I
lost



これを思い出し

からだ







そんな感じ


20151109

20151108

齋藤陽道さんの展示「なにものか」


雨のせいもありどんより暗くて、寝過ごしてしまい諦めかけたけど、その先に何かありそうな予感がして、途中からでもと思い、齋藤さんのお話を聞きに行った


筆談で静かにしゃべる様子、
字の形や文章が綴られるリズムも相まって、きれいだな、と純粋な気持ちで見とれていた



「異なることが、うれしい」

「カオスの中の秩序が、うつくしい」
は同じことなんだって

「みんなちがって、みんないい」
とは違うんだって

異なることが~、の方は差異をそのままにしてなぜかそう思えた神秘。
みんなちがって~、の方は差異を言葉で埋めようとしている。

みんなちがって~、がなんだか苦手だったので、とてもしっくりきた



音声言語も含め、現象や感情を言葉にしてしまうと、その瞬間たくさんのものが失われてしまう。

理解しようとすると、頭の中でさえ文字や音声を仲介して、目の前で起こっていることや湧き上がってくる感情を、自分が納得できるかたちに丸めて抑え込んでしまう。豊潤だったものを削ぎ落として手頃なかたちにしてしまう
音をサンプリングする時、可聴域外の不要な情報を落とすみたいに。

聴こえないかもしれないけれど、分かれないかもしれないけれど、不要な、無駄な部分があるのとないのとでは絶対的に感じられるものが違ってくると信じてる


職人気質の人たちの、一見無駄なように見えるこだわり、なんかも、この延長線上にあると思う。効率化とか生産性とは真逆の考え方

、話が逸れました、



最後、この先に見たいものは?と聞かれた時のこたえも印象的で、
「見たいものは特にない。一個人の核に立ち戻っていく。人が人と出会うよろこびに言葉を使わずに立ち戻れるように。」
って


原始的な生活に回帰するような極端な話ではなく、現代の感覚において言葉に縛られない部分でのコミュニケーションが、(かつてそうだった?ように)、もっと尊重されれば、きっと世界もおもしろくなるなあ




帰ってきてから読んだ齋藤さんの手書きのレポートや展示に関する文章も、驚くほどすとんと自分の中に落ち着くものだった


「それがなにかはわからない、しかし、とてもよくわかる。」


ずっと、分からないことを分かること、について考えていて
それに対するひとつのこたえを示されたような。
こたえなんてなくて、自分の中でそれに対して抱く、しっくりくる感覚を探してるのだろうけど。指針を示してもらったような気がする




また、お面をつくろう
自分の中にいるのだか、どこか遠くの方から呼んでくるのだか、
「なにものか」のようにそのあいだにいるのだか、分からないけど、



たぶん、かわる、ことができるから



かわって、もっと違ったところから、
みることができるから


20151019

20151019

6月に植えた苗は
金色になっていた






思い出しながら
このところゆっくりと呼吸していなかったことに気づく






流れているスピードが違うから
大切にする部分が違うから






あのこはこれからどういう風に
生きていくんだろうか


その大体が楽しいといいな



そんな感じ


20151011

20151011

昨日の0時に東京からヒッチハイクで鳥取を目指しました。

道とか全然分かんないまま行き当たりばったりで24時間近く経ったいま鳥取にいます。




本当に驚きます
みなさん底抜けに優しい、ご飯を食べさせて下さいました。みかんを頂きました。



お二人は自宅に帰るはずだったところ、夜中片道3時間くらいかけてわざわざ鳥取まで送って下さいました。
初対面の訳わからない人間を車に乗せて、疲れている中6時間を使ってくれました。嫌な顔一つせず自然体で。ジョークを交えて。



なんども感動しました。
思い出してもまだ戻れます。



寛大に受容を
自然に意識せずに
焦らない焦らない


本当にいい経験になりました
ヒッチハイクは必要とならないともうしないと思います。
声を掛けてお願いするのはやらず、ボード抱えてずっと受け身のスタイルでやってたけど。それでもやっぱり他人に負荷をかけるくらいなら自分だけでやってしまったほうが気持ちが楽という感覚があって。



みんな優しすぎて申し訳なさすぎて抱えきれません。



お礼とかいいから、また違う人に同じように返してあげて下さいと言われました。
いまはどんな場面においてもそうありたいと思っています。





20150903

20150903

8月はいつの間にか通り過ぎて行きました


恐らく日本の四季の中では夏が一番好きだけど、今年は夏らしいことは何もしなかったしどこか遠くへも行かなかった。8月の終わりに行った盆踊りは夏っぽかったかもしれない、楽しかった。


>左に寄って
今日はロボットに対話の可能性を感じた。
ここ数年気になることが答えが出ないまま少しずつ重なっていっていて。アンドロイドやロボットもそのひとつで。一般化した未来に興味がある。ロボットやアンドロイドと人間の将来的な関係の在り方については色々な意見があるけれど、全然自分の中で整理できてない、それをどうこうできるわけじゃないんだけど。
ただ、他人との対話を通して自分を省みることができたり、全く違った段階に自然と自ら気付いてシフトするためのきっかけを貰えたりするのは経験則もあって間違いないと思ってる。
だからアンドロイドやロボットが、人間ではない他人としてそういった場に存在する価値はとてもあると思っていて。そうなると、極めて擬人的な形や性質を再現したり、可愛らしかったり親しみやすい方がよくなってしまうんだけど。



>右に寄って
今日は偶然子供たちの税金を題材にした絵の展示も見た。たくさんの絵が整然と縦横に何十枚も並べられていた。ひとつひとつを見ていくうちに、税金に感謝、とか、税金はしあわせのもと、とか、そういったのをずっと見ていくうちに、なんだか不気味だなと一瞬思ってしまったけど、そういうのを通り越したとてもプリミティブな感覚というか純粋さみたいなのがうらやましくなった。授業で嫌々描いてるのかもしれないし、似たようなものも多いけど、そういった背景も含めてやっぱりとても惹かれる。もう戻れない感覚。
子どもが描いたからとか、下手ウマとか、そんなんじゃなくて、うまく言語化できない好みとして、とても刺激的。




ここ数日、右の方に寄っていた(寄せていた?)あたまが左に寄った。偏り過ぎるのはつまらないから。よい傾向。

scienceとengineering
idealismとrealism

どっちがいいとか状況によって大きく変化するし、バランスが取れてるのがいいとは限らないと思っていて。


これも振り子、
取り敢えず糸が切れないようにしていれば、どっちにだって振れる。


無理に動きを抑えてバランスを取ろうとしないで、柔軟にいつでもどちらにでも振れるように。ニュートラルに。





どの方向に対しても柔らかくいたい




そんな感じ。




20150805

20150804

夕方の空と星と

積乱雲とその奥の雷と

家が建つ予定の空き地とその上を飛び交うコウモリたちと

過去の野球の試合解説を大声で口に出しながらひとり歩くおじさんと



極めて短時間のうちに
次から次へと発生していく
ひとつひとつの現象の
どれにも敵わないと思った



そんな感じ


20150717

20150716

想像していたのより少なかった


気付いたらずっと前の方に居て
途切れず声が鳴り続ける中で

目の前で起こっている光景を
ぼんやりと眺めながら

静かに変える方法はないかな
と考えていた


何ができるのか
何をしていくべきか



20150716

20150715

全員が怒ったりがっかりしたりしてるようだけど、見渡せば全員じゃないのかもしれないし
なんだか全力で流れに乗り切れないこの感じがいつもあって

ただ、今日から冥王星の謎が少しずつ分かっていきそうなことを全力で素直に喜べるような、
生きるとか死ぬとかの不安とか心配がなくなるような、そんな風になっていけばいいのになと理想の範囲で強く思います

20150713

20150712

大きな競技場がお金を掛けてしゅっとするそうです、法案というものが古めかしくて遠かった言葉との距離を近づかせることになりそうです


大分流れに遅れてしまいました


把握したり動いたりするためのソースが村人とか酒場の女主人だとかとのふとした会話からだと面白いなあ、と思っていたけど、決まったサイクルの中だと、なんだか結局は村人や女主人もインターネットから割と同質の情報を得ていて、むしろこちらに届く頃には随分遅延が生まれるから、もうちょっとインターネットを使って積極的に集めてみることにします
また振り出しに戻る



退化と進化については
やっぱり今でも頭の中にあって

どちらにも興味あるから
極端に真逆な考えを
繰り返してしまうようです



知ってるか知らないかでも事態に対する感覚はかなり変わって来るので、取り敢えずは知っておきたいし、その上で合うか合わないか精査するって寸法です



先日いつだったか誰だったかと話をしていて、また対話の可能性を感じた。
整理できる、そこから、発生する
自分のじゃない言葉が、自分のもののように自然と出てくる

手の届きにくいところを開けてもらえる

誰に見せるでもない文章を書くのも対話の一種だと体感する。人によっては、絵を描くのも、うたを作ったり歌ったりするのも。
自分との対話。
整理して、発生した言葉の先で、
言葉じゃないものの先で、
なにか納得できるところに繋がるといい


そんな感じ


20150701

20150630

日記です
たまには


American Footballのライブに行ってきた。


たしか高校を卒業したくらいから昔のemoとか聴くようになった。

音楽は昔のようによく聴かなくなったけど、それでもアメフトはなんだかいつでも聴けるので今でもいつでも聴いていて。15年くらい前に出た音源だけど。さらっときらきらしてる


完成された昔のもので在り続けると思っていたものを、今そこで変わりながら在るものとして体感することができるという贅沢



頭の中で完全に定型化されていた音やリズムから外れた豊かなゆらぎがあった



鳴っていた音が全て心地よかった
アルペジオが、コードが
やっぱりきらきらしていた



ルーツってよく分かんないけど、
恐らくそのひとつはこの周辺にあるんだと思う



気持ちが先行し過ぎて
なんだか最後のNever Meantの演奏もさらっとしていたように感じた
けどさらっとしているからいいんだろうな
お客さんみんな歌ってた、
曖昧な歌詞のまま一緒に歌った、



共通認識として当然のようにあるけど、文字や写真や映像や音声ではパッケージングしきれない要素がやっぱりこういった空間と時間には多分に含まれていて、それを感じたいからふらふら気軽に何処へでも流れてうまい具合に鉢合わせたいな、
と思うのです



あー、かっこよかった。






20150617

20150616

きょうは形式上ひとつの共通点のあるばらばらな方々と集まる機会


ひとって、本当に
いろいろな場所にいて
いろいろな時間を過ごしていて
想像も及ばないような行動や思考をしていて
それをいま現在もリアルタイムに積み重ねていて
本当に驚く

いいとか悪いとか置いといて
これまで出会ったことのない
いきなりそんな、人となりというか人間性というか、の人型の塊のほんの一角でも見てしまうと頭がぐわんとする



未だに慣れず、
決して心地いいリズムではないけれど
あっちこっちそわそわ流されるんじゃなくて
ふわっと大きく受容して
環境みたいになれるといい

包み込むのはずっと難しいだろうから
当面は広い敷物みたいな感じだろうか
かといって、我関せず、でもなく




そんな時間でどっと疲れたのか
向き合おうとしてたことからあっさり逃げた

こんなあっさり珍しい

昔からひねくれているので
自己啓発的な言葉がとてもとても苦手で、
でもたまたま聞いた数時間前の言葉は逃げるのを後押ししてくれた

真剣になれ、でも、深刻になるな

?ピンチはチャンス
?窮鼠猫を噛む
?火事場の馬鹿力
頻繁に発揮してたらここぞのスーパーなパワーもどうなることやら
慣れは怖い

深く刻んでばっかじゃ疲れちゃうし
追い詰められて初めて生まれるものもあるけど
ちょっといまは違う


なんだかやけにいろいろ積み重なっているけど、思い出してみると割といけそう、底はまだ深いところに
なんだって、みといた方がいいし、しといた方がいいのか


この前も、真面目すぎる程に真面目らしいことが分かったので、ただ真面目な人も苦手なので
ちょっとバケーション
背骨を抜いてだらんと




帰り道、
純粋な動機は
とてもきれいだなと思った


純粋な ひと や もの や こと
心地いいです


何ごとも
だらっと真剣にやります
できたらいいです




そんな感じ




20150525

20150524

誰も居なくなった静かな空間で


宙に浮いた高いところで


ふと流れてきた静かな歌で


全身で水を飲んだみたいになった



軽く、かるく




20150519

20150518

今日もお陰さまで、また色んなことが繋がっていきました。
きっと空間が持つ力なんだと思います。自分の中でもそういうことにします。



最近はとても穏やかで、すうっとしています。
この状態がずっと続くわけはないし、バランスが崩れてしまうのは怖いけど。



いまをじっくり味わうしかないかなと思います。
月並みな言葉で言えば、瞬間瞬間を楽しむ、ということに近いかもしれないけど、そうじゃなくてもうちょっとシーケンス的なフェーズの塊でゆっくりじわっと味わいたい感じです。


突然崩れた調和を愉しめるようなそんな耐性が欲しいです。
面白くなってきやがったぜ〜、的な。

ピンチをチャンスに変えられなくてもいいから、ピンチを受容して最終的にピンチと認識しなくすることができればいいです。


心にも身体にも余裕があるとついつい奢りがちなので、今だけでも謙虚に穏やかにいたいです。

この感覚を覚えておいて、イライラしたり追い込まれたりした時に思い出せれば、コントロールできやしないかなと思惑しています。



なんだかスピリチュアルな自己啓発本な感じになってしまいましたが、どうせ日常生活を重ねていけばどっかに落っことしちゃうんだから残念です。
でも、また拾おうとした時には要領覚えてるから、前よりは楽に拾えると信じたいです。

これもやっぱり、瞬間の頻度を上げて一続きにしていく考え方と一緒でしょうか。周波数を高くして短い周期に波をたくさん詰め込むイメージ。そうすると感度を上げてくことがそうだと思うから、現実世界では常に感覚を研ぎ澄ましていけばそうなるはずだから、gainを上げてノイズとして埋もれてしまう小さな音を拾えるはずだから、そうするためには単調な繰り返しの生活で感情のない機械みたいになってたらいけないから、・・・うんぬんかんぬん



自分はスマートフォンで文章を書くと、上から下へ思い付いたことを一方通行で一気にだだだだっといってしまい、脈絡とかなくなってしまうからよくないです。



何にしたって、空間とそこに集まる人たちのお陰です。


お世話になっております!










20150504

20150503

時間があります。
書いて残したいと思っていることは割と幾つかあります。
でも、時間があるので、たいしたことじゃないけど、
たいしたことじゃないことを書いて残します。


最近、早起きして森へ出かけます。
そのことについて。


やっぱり自然が最高、都市はゴミゴミしてて最低、
っていうような偏った考えではまだないです。
と、思うけど、自分の中の流行だから、多少偏ってるかもしれません。
でも、そのことについて。



東京の真ん中の方に住んでいても、
電車に1時間も乗れば色々な森に行くことができる。

守るために、残すために、人為的に整備されているものが殆どだけれど、
それでもそこには木が何本も何本も立っていて、枝や葉っぱがこすれて風の音が聞こえて、それに混じって色々な鳥の声が聞こえる。
柔らかい土の上を踏む感覚とその匂い。360度、視界は緑色で良好。


適当な分だけ日差しが透過された空間は、寒くもなく暑くもなく、
適当な分だけの音量で環境が鳴っている空間は、うるさくも物足りなくもなく、
まさに”適当”なのだと感じる。
”適当”の尺度なんてひとそれぞれで、そこに対峙した瞬間のそのひとの
置かれている状況・心境なんかが大きく影響するとは思うけれど。
少なくとも最近の自分は、この時期の森に対して、ある程度のものを満たしていれば、
どこへ行ってもいつ行っても”ちょうどよい”のだと思う。
雰囲気にのまれているだけかもしれないけれど、そのお陰で”ちょうどよい”状態になっているのならそれはそれで。


”適当”って、なんだか偉そうなので、”ちょうどよい”の方がしっくりくる。
みんな、この”ちょうどよい”が恋しくて、癒されるために森に行きたがるのだろうか。
幾つかの森に行ったけれどすぐ隣が住宅地でも、違う世界に一歩踏み入るための森が、
誰にでも開かれた森としてある。
地域の方々が協力して、みんなの森を維持している様子が垣間見られる。


どうして、自分がいま森に行こうと思い立ったか覚えていない。
そういえば、こじつけかもしれないけれど、小さい頃体験していた環境に近いからというのが一つある。


実家は山奥ではないけれどある程度の田舎にある。
電車も高速道路も、家の近くにはバス停もない。

もちろんライブハウスなんてないから、原付やバスで1時間くらいかけて港へ行って、
1時間弱フェリーにのって、やっとのことで賑やかなところへ出掛けていた。
もちろんもちろん映画館もないから、唯一の市民ホールみたいなところで稀に全国で上映中の大きな映画が1回きり上映される。ドラえもんの新作なんて回ってきた日には、子供たちは狂喜乱舞のお祭り騒ぎ。(のび太くんのおばあちゃんの映画の時に、一緒に行った子供たち全員が号泣してたのを鮮明に覚えてる、あの頃のピュアさはどこに置いてきたのやら)


小学校までの通学路はずっと田んぼや畑に囲まれた道だった。
カエルがいた、バッタがいた、川があった、山を切り開いた坂があった、
昔の防空壕があった、ススキがあった、ひっつき虫を投げたりした、
潰した空き缶をみんなで蹴って帰った。

小学校はぐるっと木で囲まれていて、すぐ裏には山があって、
そこがアスレチックになっていたから、よく昼の長い休み時間に走り回っていた。
そのお陰で足腰が鍛えられたのかもしれない、関係なさそうだけどそういえば骨折とか一度もしたことない。


森の中を歩いていると、木の根っこが出てるとことか、
”ちょうどよい”薄暗さとか、土の匂いとか、音とか。
アスレチックや、遠足で歩いた道や登った山を思い出す。

あと、森ですれ違うおじいさんやおばあさんたちとの、
「こんにちは」
もそうだ。

しつけなのか、自主的になのか、小さい頃はすれ違う人には必ず挨拶するもんだと思ってたけど、いつの間にかそうじゃなくなってて。
でも今でも無言ですれ違う度に、罪悪感みたいなもやもやしたのが生まれたりして。
それこそ、たいしたことじゃないけどなんだか寂しい。
お互い挨拶したいのに、そういうことする環境じゃないからってことで、
それを押し殺してるのだとしたらもっと寂しい。


近くにあったものが、場所が変わって、近くになくなったから、
懐かしいのかもしれません。
近くだったものが、時間が変わって、近くでなくなったから、
残念なのかもしれません。


こじつけだけど、いまはそれがそういうことなのかなあ、
と思うことにしています。


この前は森の中でトカゲを探してた小学生の兄弟が友達になってくれました。
聞けば1万人以上友達がいるとのことで、うらやましい限りでした。
これで友達が2人増えてよかったね、と言われた気がします。

最後は知らない他の子たちも混ざってみんなでサッカーをしました。
そこには何も壁がなくって、初対面の概念がなくって、みんながみんなそれぞれで、
楽しくてはしゃいでしまいました。



だらだらだらだら書いてしまって、本当なら考えを整理して筆を取らなきゃいけなくて、
一晩寝たら考えも変わっているのかもしれませんが、時間があったので思いつくことを長々と書いてしまいました。

地元については、書いていて懐かしくなって、いささか誇張が入っていたり、いつの間にかUFOに連れ去られていて記憶を書き換えられていたりするところもあるかもしれません。
そうだとしたらすみません。



明日くらいからまた仙台行こうと思っています。
少し通いすぎなところがあるけど誘ってもらえて本当にありがたいです。
仙台は杜の都といわれています。



結局は時間が緩やかに流れるのがいいのかもしれません。


そんなに急いで走らなくったっていいから、
追いつこうとしなくていいから、
大きく息を吸って、ゆっくり吐いたら、
そうしたら、自然と歩き出します。



森ブームはもう少しだけ続きそうです。







20150321

20150321

帰りのバスの中で書いていたのを随分放ったらかしていました、
のでそれをちゃんとしました。




ほんの束の間仙台に行ってきました。
いつも誰かしらが誘ってくれて、本当にありがとうございます。



フリマイベントの記念すべき第1回目だったそうです。

少しかっこつけたような宣伝文句が素直にかっこいいなと思いました。
色々ともらって頂いて、声を掛けて頂いてありがとうございます。


いつものやつに加え、幾つか恐竜を持っていきました。
恐竜は最近夜な夜なつくっているプラスチックの板に絵を描いてバッヂにしたやつです。
バンド名候補に挙げて 一瞬で却下された恐竜をそのまま流用しました。

アカウントつくってずっと放置していたnoteに、今回の分から飽きないうちは記録してみようかなと思っています。


恐らくすぐに壊れるので、無料配布のもってけ泥棒です。



人からお金をもらうのがどうも苦手で、元々お金にあまり執着がなくて、そういった風なので管理もひどくずさんでいけないなとは自覚していますが、やっぱりどうもといった感じです。だんだんと欲しいものが減ってきていたり、やりたいことがお金がかからない方向に向いているのが多いせいもあってなおそう感じます。(生活するのに充分お金をもらっているからこんなことが言えるんだろうけど)


お金(通貨)は借用書だそうです。経済とかちゃんと勉強していないから、いつの間に誰と貸し借りしてたんだっけとなって、国債なんかをちゃんと考え出すとぐるぐるしてわけわかんなくなります。通貨も紙幣と貨幣で発行元が違ったり、法的な取り扱いも異なると最近教えてもらいました。一般常識が身に付いていなくて情けない。

その瞬間の絶対数や、技術的なレベルや、知らない誰かの陰謀なんかも大いにあって、ひとつひとつのモノやコトそれぞれに対して、これくらいが妥当だという分の通貨が色々な尺度に基づいて決められているんだろうと思います。言語みたいに国ごとに通貨も異なるから価値を合わせる尺度としてのレートが必要で、尺度尺度尺度・・・と共通の価値を決めようとするのは、これとこれを交換する時にぴったり同じ価値じゃないと嫌だという誰かのワガママみたいだなと妄想してしまいます。たとえ釣り合ってなくったってお互いが不満じゃなかったら、それでいいのになあと思ってしまいます。


貨幣経済がどうとか、贈与経済がどうとか、そういったところにまで考えを広げる訳ではないけれど、お金を介さないで人と関わっていけたら理想だなと思います。
とても甘い考えで、具体的な解決策は示せないけど、金の切れ目が縁の切れ目、は悲しいから。

あと、流れる方向としても、これあげるからこれちょうだいじゃなくて、これもらったからこれあげるね、になるといいなあ。


こんなことばっか書いてると、どうにかぐるぐる回っている経済活動を妨げようとしている、悪の秘密結社の親玉に仕立て上げられてしまいます。
悪いのは嫌だけど、秘密結社という響きにはとても惹かれます。


大きなサイクルから抜け出した生活を送るのは一筋縄じゃいかないし、フライドポテトとかアイスクリームとかない生活は想像できないし、まだ当分無理そうです。




仙台はやっぱり第何番目かの故郷だなあと思います。










20150317

20150316




孤独か孤独ではないか
ひとりかひとりではないか
はちょっと違うと思う


と思った



20150316

偽善
という言葉で

いまの全てが一蹴される


やらないよりは、やる、
方がいいのだろうか



動機は不純、周りの目、自分への納得
動機なんて関係ないのだろうか



その先の人たちのことを思って、
その気持ちを自分のものとして、
いるのだろうか
できるのだろうか
なれるのだろうか



きっと根っこじゃ
そうじゃない


結局は自己満足
こうやって書き残すことも

目を惹く言葉を選んで
心地よい間隔を空け
外面のよい文章にしようとする
此の期に及んで
ひらがな、カタカナ、漢字、
句読点に読点
のバランスを気にする


当事者面したいわけじゃない
でも向こう側に席を設けて安心したい
ということかもしれない




下手にずる賢くなってしまった
いらない


偽善



ふ、とした
一言が
ひどく重い



でも大丈夫
後ろ向きじゃない


迷惑を掛けない範囲で
できることを探して
やってみたい




これは夜の頭の中で
起きたら変わることも多分に


それもいい
でも


記録

ぶれないように



20150308

20150307

数年前から、
3月がもう少し苦手になった
元々、春があまり得意ではなくて
出会いとか別れとか、そういうのが原因ではないと思っていて。
具体的に言語化できないのだけれど、ヒトも含めた周りの環境が全て遅く生暖かくなる感じというか。視覚にボヤけるフィルターを1枚通したような感覚になるというか。
なんだか世界全部がだるーんとなっているように思えて、自分までだるーんとなってしまう。結局は花粉とか具体的なものが原因かもしれないけれど。
そんなこともあってか、今日は朝からずっとぼんやりしてしまって、行こうと思ってたところにもひとつも行けず残念だった。終始空がどんより曇っていたせいもあったかもしれない。

残念だったから、そのぼんやりと残念を翌日に持ち越さないように、夜に近所の銭湯に行った。最近もダメそうだなと感じたら行ってザバあっとするようにしてる。逃げるための場所。前向きに逃げるための場所。そもそも何かに追われてるのだろうか。それすらもはっきりしていない。
音楽としては聴いていないのだけれど「晴れたり曇ったり変わりやすい僕の空」という歌詞をよく思い出すことがあって、ここ数年の自分にもしっくりくる。一喜一憂、振れ幅よりも周期が短くなっているような傾向。
今日も君が遊びに来る傘もささずに」と続くこの歌みたいに、大雨の日にだって傘をささなくても平気でいられるようになりたい。


そういえば、自分がこれから何をやりたいのか分からない、という話をしたりした。同じように考えている人はいくらでもいることを再認識。
ずっとその日暮らしで、朝昼晩の食事のこととか、起きる時間と寝る時間のこととか、洗濯と皿洗いのこととか。そんな半径3〜4メートルの範囲のことだけを考えて1日が終わってしまうことも多い。淡々としたその繰り返し。
外の世界では毎日大変な出来事が入れ替わり立ち替わりで起こっていることを認識しながらも、何もリアクションしていない自分を情けなく思いつつ。



一歩踏み出す先すら見えているか定かではないけれど、何をしたいのか/どう在りたいのかについて、この前偶然出くわした瞬間を撮ったこの写真がとてもとてもしっくりきている。








これこそうまく言葉にはできないのだけれど、
いまの自分は、この写真の中に同時に存在しているものたちのそれぞれにひたすらに近づこうとしている状態なのかもしれなくて。
もしかすると取り戻す行為なのかもしれないし、それは単純に思い出すことなのかもしれない。
全部にいっぺんに近づくことはとても難しいから、ただただ憧れているのかもしれない。



まだまだ自己啓発的なところに考えが寄っていってしまいがちです。
自己満足の追求は程々にして、そろそろ、その先に人がいることに関わっていけたらなと思っています
(書くことによる自分へのプレッシャー)




取り敢えず、
朝は早く起きれるようになりたいです

三文の得、の三文について
ある情報筋によると現代価格に換算すると90円くらいだそうです(2014年時点)


90円払うので3月中はもう少しだけ長く寝かせて欲しいです、おやすみなさい



20150202

20150202

世界中がどんよりとしていて
真っ暗い夜みたいだったら

夜の暗さに目が慣れるまで
夜の静けさに心拍数を合わせられるまで
じっと耐えることができればいいと思います


でもあかりを灯せば自分の周りだけでも明るくできるなとも思います


懐中電灯や蝋燭や、
形は不格好でもなんでもいいし、電池が切れそうで少ししか明るくならなくても、とにかく光れば
漠然とした不安が少しでも飛んで、気持ちが楽になる

それが大勢で集まってやれば
とても明るいイルミネーションみたく、大きな焚き火みたくなります
きっと暖かい


夜の、静かで穏やかな感じは嫌いじゃありません。でも、野生のライオンとかに狙われる恐怖を伴うサバンナな夜は避けたいです

恐れは怒りを誘発するのだそうです
怒りたくありません、怒っている人は苦手です


そんな感じ


20150120

20150120

拍子抜けしてしまった。
外に出たら世界はいつもと全く同じで。特定の誰かや社会とかを否定するわけではなくて、ただびっくりしたのです。

今日の午後に自分からしてみればとても重大で深刻なニュースが飛び込んできた。
そろそろしっかりと把握しておかないといけないと思い、最近国際的な話題を読んだり耳にしたりしていたこともある。それが自分の国というとても身近なところで関わってきたので気が気じゃなかった。

何もできないことは分かっているけど、状況とそれに対する対策についてとりあえず沢山の情報が欲しかった。それでネットとかで関連する情報を検索して、ずっと垂れ流した状態で、自分の中では不安と恐れが大半を占める状態で、過去の事例や賛否両論国内の様々な人たちの意見や知識をただひたすら横目で読んでいた。何が正解で何が誤りか分からないまま、最悪の事態とか想像したりして、ずっと興奮して鳥肌を立てて座ったまま頭がぐるぐるしていた。

そんなのを数時間続けたのち、夜になって外に出ていつもの道を歩いていると、いつもと変わらない風景があった。いつもと違うのは自分だけで、全く違う世界に迷い込んでしまったと本気で錯覚してしまう程だった。自分のSNSを覗いてもいつもと殆ど変わらず穏やかなもので。もちろん言及している方々もいらっしゃったし、たまたまだとも思うけど。でも異世界に迷い込んだ感覚、パラレルワールドの感覚、映画や本の中だけのものではなかったようです。

異世界を現実世界と認識できた途端に、なんか息と一緒に不安や恐れが一気に吐き出される感覚があった。数日はずっと緊張が続いて眠れないんじゃないかとか考えたりした。このまま形を変えながらずっと続くかもとさえ考えた。
いいとか悪いとか置いといて、何か問題が起こった時にすぐに大きな声を上げて自分の主張や周りへの自分なりのアドバイスを訴えようとする人の気持ちが少し分かった気がする。
まだまだ不安で怖いことに変わりはないけど。きっとひとつの答えに収束とかする問題ではないと思うけど。

最近も人に考えすぎだと言われたけど、今回もそうなのかなと思った。
また近所の銭湯に行ってきた。お風呂というのは、身体も心もどちらの疲れもお湯でザバぁっと洗い流せると自分に暗示を掛ているところがある。近くにあってとても助かっています。

銭湯への往路でおそらく生まれて初めて犬のフンを踏みました。
だからさっき近所の公園で真っ暗な中、ひとりで洗い流してきたところです。
使い古した歯ブラシと銭湯へも持参したボディソープを使ってみたところ、踏んづける前よりもピカピカになりました。歯ブラシとボディソープおすすめです。

そわそわしている間になぜか無性にこってりとしたラーメンが食べたくなりました。
明日あなたは死ぬと宣告されたりとか、地球最後の日の前日とかになると、きっと自分はラーメンを食べに行くんでしょう。

先も見えない渦中に、こんなにふざけた不謹慎なことを書いているのは、少しでも落ち着かせたいという力が働いているのかもしれません。とりあえず不謹慎と書くことで自分を擁護するクセがあります。



非現実が一瞬にして現実味を帯びて隣り合う感覚を味わった。

今もどうなるのだろうと心配することしかできていない。

20150113

20150112

明けましておめでとうございます。

昨年は北極圏に近いところで年を越しましたが、今年は上空でHAPPY NEW YEARと言い、赤道に近いところに行きました。それはまた後で残すようにします。

今日はお誘い頂いた与那国島の映画を観て、何も分からないなりに少し考えました。
劇中ではたくさんの人たちが怒っていて、2つの正義があって、最後まで自分にはどちらが正解か全然分かりませんでした。とても難しい問題。
月並みで残念ですが、いまは考えるきっかけが貰えてよかったと思うことにしました。


その後、本当に偶然ほぼ初対面のとても面白い人たちの輪の中に入れて頂き、これまでの人生で全くかすってもこなかった面白い話を次々と聞けました。本当狭いところしか見てこなかったんだとまた後悔しました。

住んでいる小さなまちで
数時間の間に一連のことが起こった。
ここは本当に素敵な場所です。
色んな人たちが思わぬところで繋がっています。でも必然なのかもしれません。
いまは空間的にも時間的にも非常に恵まれた環境にいると思うので、積極的に動いていこうという心待ちです。

見えていなかった世界は果てしなくだだっ広くて、キラキラというかギラギラしています。もうなんか気付かぬうちに文章が詩的になってしまうくらい気分が高揚しています。
いつもの焦燥感はあまりないです。
知らなかったことをもっと知りたい、話を聞ききたいという純粋でポジティブな欲求かと思います。

最近は自分に潜る本ばかり読み、いまのこのぼんやりしている状態は何なのだろうと答えをはっきりさせようと近くて狭いところで躍起になっていました。

でも、それどころじゃありませんでした。色んな本を読んで勉強したいという意欲が出てきました。あまり得意ではありませんが色んな人と話をしようというやる気が出てきました。

ひとりが好きと逃げていましたが、そろそろ人見知りとはおさらばしなけりゃなりません。

ひとりで自問自答している哲学しているのは、白紙なのにそこに描いてあるはずがないタヌキ(うろ覚えです)の絵をここ描いてあるのはタヌキだ!と必死で理解しようとしているようなものだと今日会った方々が仰っていました。


外に目を向けないと。
年始のよいタイミング。

でも今年の目標を、
「断る勇気」
に設定してしまったので
早速失敗したかなと思っています。


今年もよろしくお願いいたします。