20151109

20151108

齋藤陽道さんの展示「なにものか」


雨のせいもありどんより暗くて、寝過ごしてしまい諦めかけたけど、その先に何かありそうな予感がして、途中からでもと思い、齋藤さんのお話を聞きに行った


筆談で静かにしゃべる様子、
字の形や文章が綴られるリズムも相まって、きれいだな、と純粋な気持ちで見とれていた



「異なることが、うれしい」

「カオスの中の秩序が、うつくしい」
は同じことなんだって

「みんなちがって、みんないい」
とは違うんだって

異なることが~、の方は差異をそのままにしてなぜかそう思えた神秘。
みんなちがって~、の方は差異を言葉で埋めようとしている。

みんなちがって~、がなんだか苦手だったので、とてもしっくりきた



音声言語も含め、現象や感情を言葉にしてしまうと、その瞬間たくさんのものが失われてしまう。

理解しようとすると、頭の中でさえ文字や音声を仲介して、目の前で起こっていることや湧き上がってくる感情を、自分が納得できるかたちに丸めて抑え込んでしまう。豊潤だったものを削ぎ落として手頃なかたちにしてしまう
音をサンプリングする時、可聴域外の不要な情報を落とすみたいに。

聴こえないかもしれないけれど、分かれないかもしれないけれど、不要な、無駄な部分があるのとないのとでは絶対的に感じられるものが違ってくると信じてる


職人気質の人たちの、一見無駄なように見えるこだわり、なんかも、この延長線上にあると思う。効率化とか生産性とは真逆の考え方

、話が逸れました、



最後、この先に見たいものは?と聞かれた時のこたえも印象的で、
「見たいものは特にない。一個人の核に立ち戻っていく。人が人と出会うよろこびに言葉を使わずに立ち戻れるように。」
って


原始的な生活に回帰するような極端な話ではなく、現代の感覚において言葉に縛られない部分でのコミュニケーションが、(かつてそうだった?ように)、もっと尊重されれば、きっと世界もおもしろくなるなあ




帰ってきてから読んだ齋藤さんの手書きのレポートや展示に関する文章も、驚くほどすとんと自分の中に落ち着くものだった


「それがなにかはわからない、しかし、とてもよくわかる。」


ずっと、分からないことを分かること、について考えていて
それに対するひとつのこたえを示されたような。
こたえなんてなくて、自分の中でそれに対して抱く、しっくりくる感覚を探してるのだろうけど。指針を示してもらったような気がする




また、お面をつくろう
自分の中にいるのだか、どこか遠くの方から呼んでくるのだか、
「なにものか」のようにそのあいだにいるのだか、分からないけど、



たぶん、かわる、ことができるから



かわって、もっと違ったところから、
みることができるから


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