20141210

20141209

今日ふと思い出したこと。

こちらにいると数年前に起こった大きな出来事や、
向こうやいろいろな場所に散らばった人たちの中では
今も未だ続いているであろうことをついうっかり
忘れてしまいそうになる。

忘れることは避けられない、
でも思い出すことはできる。
個人的にも定期的に思い出す必要がある。


こちらにおける、
普通の、日常の、ルーティンな、生活。


“慣れ”というのは恐ろしいもので、
その中にいると様々な物事に対する欲求の平均値が
いつの間にか上がっていき、あれもこれももっともっと、
と気付かないうちに焦ってしまい次第に自分を追い込んでしまう。

周りの人たちにも多分な影響を受けることで焦りながら、
かつ巻き込みながら、相互作用的な負のスパイラルが止まらなくなる。


当時は、物も娯楽も全くなくても全然平気なのだ、
と最低限で生きることを体感できたはずなのに、
場所が変わって、時間が経てばすぐに忘れてしまう。
ましてや自己顕示欲なんて生まれる隙間もなかったはずなのに。


今現在、具体的に欲しい物やどうしてもやりたい事があるわけではないけれど、
充分すぎるほどに物で溢れていて、時間的な余裕もあるはずなのに、
それでも全く満たされている気がしない。精神的な不足や焦燥感を常に感じる。


視野がすごく狭くなっていることも一因と思う。
例えば毎日の生活から抜け出さない範囲や、興味のある
音楽や演劇等々やその周りの人たちだけにしか目を向けておらず、
非常に狭い界隈の中をいかにうまく切り抜けるか、充実するか、
に必死になっている気がする。


もっともっと、広く見渡さなければなりません。
正確ではありませんが、好きな漫画の中に、地球上の大部分は海や山や植物なのにどうして私たちは自分たちが生み出した娯楽等にばかり目を向けるのだろうというようなセリフがあります。
もっと自然を愛さなければ、とかそういったニュアンスではなく、すっと自分の中に入ってきました。


山本耀司さんが本の中で、フランス語の「ici et maintenant」という
言葉を取り上げていました。「ここで、今」という意味で、
ご本人は過去を振り返ることが嫌いなのだそうです。
初めてこの言葉を目にした時は、将来的なことは考えず
瞬間瞬間を生きていくということが大事だと理解して、
これまで後先考えず本当に感覚的に生きてきてしまった自分に
ぴったりと合ったので嬉しくなりました。

でも、今はやっぱり思い出して省みることも必要だと
感じているので矛盾してしまいます。
今ここの目の前の狭い範囲に集中するのではなく、
広い範囲を俯瞰したいという点でもずれてきます。
やはりどちらも重要であり、時と場合に応じた
抜き差しを身に付けるべきなのかもしれません。



こうやって事あるごとに、一歩引いて自分を見ることが
できるようになればよいのですが。
別件ですがここ数年の課題である“怒らない”ことについては、
段々と実践できるようになってきました。
怒ってしまっている自分に気付く反射的なスピードが速くなってきました。


そろそろ自分をどうにかではなく、
周りのために何か関わっていけるようにしていきたいです。
その動機が結局は自分のためであっても。

こんな風に頭の中だけでだらだら考えて書いてるだけじゃなくて、
実践していかないと意味ないというのは分かっています。