20150321

20150321

帰りのバスの中で書いていたのを随分放ったらかしていました、
のでそれをちゃんとしました。




ほんの束の間仙台に行ってきました。
いつも誰かしらが誘ってくれて、本当にありがとうございます。



フリマイベントの記念すべき第1回目だったそうです。

少しかっこつけたような宣伝文句が素直にかっこいいなと思いました。
色々ともらって頂いて、声を掛けて頂いてありがとうございます。


いつものやつに加え、幾つか恐竜を持っていきました。
恐竜は最近夜な夜なつくっているプラスチックの板に絵を描いてバッヂにしたやつです。
バンド名候補に挙げて 一瞬で却下された恐竜をそのまま流用しました。

アカウントつくってずっと放置していたnoteに、今回の分から飽きないうちは記録してみようかなと思っています。


恐らくすぐに壊れるので、無料配布のもってけ泥棒です。



人からお金をもらうのがどうも苦手で、元々お金にあまり執着がなくて、そういった風なので管理もひどくずさんでいけないなとは自覚していますが、やっぱりどうもといった感じです。だんだんと欲しいものが減ってきていたり、やりたいことがお金がかからない方向に向いているのが多いせいもあってなおそう感じます。(生活するのに充分お金をもらっているからこんなことが言えるんだろうけど)


お金(通貨)は借用書だそうです。経済とかちゃんと勉強していないから、いつの間に誰と貸し借りしてたんだっけとなって、国債なんかをちゃんと考え出すとぐるぐるしてわけわかんなくなります。通貨も紙幣と貨幣で発行元が違ったり、法的な取り扱いも異なると最近教えてもらいました。一般常識が身に付いていなくて情けない。

その瞬間の絶対数や、技術的なレベルや、知らない誰かの陰謀なんかも大いにあって、ひとつひとつのモノやコトそれぞれに対して、これくらいが妥当だという分の通貨が色々な尺度に基づいて決められているんだろうと思います。言語みたいに国ごとに通貨も異なるから価値を合わせる尺度としてのレートが必要で、尺度尺度尺度・・・と共通の価値を決めようとするのは、これとこれを交換する時にぴったり同じ価値じゃないと嫌だという誰かのワガママみたいだなと妄想してしまいます。たとえ釣り合ってなくったってお互いが不満じゃなかったら、それでいいのになあと思ってしまいます。


貨幣経済がどうとか、贈与経済がどうとか、そういったところにまで考えを広げる訳ではないけれど、お金を介さないで人と関わっていけたら理想だなと思います。
とても甘い考えで、具体的な解決策は示せないけど、金の切れ目が縁の切れ目、は悲しいから。

あと、流れる方向としても、これあげるからこれちょうだいじゃなくて、これもらったからこれあげるね、になるといいなあ。


こんなことばっか書いてると、どうにかぐるぐる回っている経済活動を妨げようとしている、悪の秘密結社の親玉に仕立て上げられてしまいます。
悪いのは嫌だけど、秘密結社という響きにはとても惹かれます。


大きなサイクルから抜け出した生活を送るのは一筋縄じゃいかないし、フライドポテトとかアイスクリームとかない生活は想像できないし、まだ当分無理そうです。




仙台はやっぱり第何番目かの故郷だなあと思います。










20150317

20150316




孤独か孤独ではないか
ひとりかひとりではないか
はちょっと違うと思う


と思った



20150316

偽善
という言葉で

いまの全てが一蹴される


やらないよりは、やる、
方がいいのだろうか



動機は不純、周りの目、自分への納得
動機なんて関係ないのだろうか



その先の人たちのことを思って、
その気持ちを自分のものとして、
いるのだろうか
できるのだろうか
なれるのだろうか



きっと根っこじゃ
そうじゃない


結局は自己満足
こうやって書き残すことも

目を惹く言葉を選んで
心地よい間隔を空け
外面のよい文章にしようとする
此の期に及んで
ひらがな、カタカナ、漢字、
句読点に読点
のバランスを気にする


当事者面したいわけじゃない
でも向こう側に席を設けて安心したい
ということかもしれない




下手にずる賢くなってしまった
いらない


偽善



ふ、とした
一言が
ひどく重い



でも大丈夫
後ろ向きじゃない


迷惑を掛けない範囲で
できることを探して
やってみたい




これは夜の頭の中で
起きたら変わることも多分に


それもいい
でも


記録

ぶれないように



20150308

20150307

数年前から、
3月がもう少し苦手になった
元々、春があまり得意ではなくて
出会いとか別れとか、そういうのが原因ではないと思っていて。
具体的に言語化できないのだけれど、ヒトも含めた周りの環境が全て遅く生暖かくなる感じというか。視覚にボヤけるフィルターを1枚通したような感覚になるというか。
なんだか世界全部がだるーんとなっているように思えて、自分までだるーんとなってしまう。結局は花粉とか具体的なものが原因かもしれないけれど。
そんなこともあってか、今日は朝からずっとぼんやりしてしまって、行こうと思ってたところにもひとつも行けず残念だった。終始空がどんより曇っていたせいもあったかもしれない。

残念だったから、そのぼんやりと残念を翌日に持ち越さないように、夜に近所の銭湯に行った。最近もダメそうだなと感じたら行ってザバあっとするようにしてる。逃げるための場所。前向きに逃げるための場所。そもそも何かに追われてるのだろうか。それすらもはっきりしていない。
音楽としては聴いていないのだけれど「晴れたり曇ったり変わりやすい僕の空」という歌詞をよく思い出すことがあって、ここ数年の自分にもしっくりくる。一喜一憂、振れ幅よりも周期が短くなっているような傾向。
今日も君が遊びに来る傘もささずに」と続くこの歌みたいに、大雨の日にだって傘をささなくても平気でいられるようになりたい。


そういえば、自分がこれから何をやりたいのか分からない、という話をしたりした。同じように考えている人はいくらでもいることを再認識。
ずっとその日暮らしで、朝昼晩の食事のこととか、起きる時間と寝る時間のこととか、洗濯と皿洗いのこととか。そんな半径3〜4メートルの範囲のことだけを考えて1日が終わってしまうことも多い。淡々としたその繰り返し。
外の世界では毎日大変な出来事が入れ替わり立ち替わりで起こっていることを認識しながらも、何もリアクションしていない自分を情けなく思いつつ。



一歩踏み出す先すら見えているか定かではないけれど、何をしたいのか/どう在りたいのかについて、この前偶然出くわした瞬間を撮ったこの写真がとてもとてもしっくりきている。








これこそうまく言葉にはできないのだけれど、
いまの自分は、この写真の中に同時に存在しているものたちのそれぞれにひたすらに近づこうとしている状態なのかもしれなくて。
もしかすると取り戻す行為なのかもしれないし、それは単純に思い出すことなのかもしれない。
全部にいっぺんに近づくことはとても難しいから、ただただ憧れているのかもしれない。



まだまだ自己啓発的なところに考えが寄っていってしまいがちです。
自己満足の追求は程々にして、そろそろ、その先に人がいることに関わっていけたらなと思っています
(書くことによる自分へのプレッシャー)




取り敢えず、
朝は早く起きれるようになりたいです

三文の得、の三文について
ある情報筋によると現代価格に換算すると90円くらいだそうです(2014年時点)


90円払うので3月中はもう少しだけ長く寝かせて欲しいです、おやすみなさい