20150308

20150307

数年前から、
3月がもう少し苦手になった
元々、春があまり得意ではなくて
出会いとか別れとか、そういうのが原因ではないと思っていて。
具体的に言語化できないのだけれど、ヒトも含めた周りの環境が全て遅く生暖かくなる感じというか。視覚にボヤけるフィルターを1枚通したような感覚になるというか。
なんだか世界全部がだるーんとなっているように思えて、自分までだるーんとなってしまう。結局は花粉とか具体的なものが原因かもしれないけれど。
そんなこともあってか、今日は朝からずっとぼんやりしてしまって、行こうと思ってたところにもひとつも行けず残念だった。終始空がどんより曇っていたせいもあったかもしれない。

残念だったから、そのぼんやりと残念を翌日に持ち越さないように、夜に近所の銭湯に行った。最近もダメそうだなと感じたら行ってザバあっとするようにしてる。逃げるための場所。前向きに逃げるための場所。そもそも何かに追われてるのだろうか。それすらもはっきりしていない。
音楽としては聴いていないのだけれど「晴れたり曇ったり変わりやすい僕の空」という歌詞をよく思い出すことがあって、ここ数年の自分にもしっくりくる。一喜一憂、振れ幅よりも周期が短くなっているような傾向。
今日も君が遊びに来る傘もささずに」と続くこの歌みたいに、大雨の日にだって傘をささなくても平気でいられるようになりたい。


そういえば、自分がこれから何をやりたいのか分からない、という話をしたりした。同じように考えている人はいくらでもいることを再認識。
ずっとその日暮らしで、朝昼晩の食事のこととか、起きる時間と寝る時間のこととか、洗濯と皿洗いのこととか。そんな半径3〜4メートルの範囲のことだけを考えて1日が終わってしまうことも多い。淡々としたその繰り返し。
外の世界では毎日大変な出来事が入れ替わり立ち替わりで起こっていることを認識しながらも、何もリアクションしていない自分を情けなく思いつつ。



一歩踏み出す先すら見えているか定かではないけれど、何をしたいのか/どう在りたいのかについて、この前偶然出くわした瞬間を撮ったこの写真がとてもとてもしっくりきている。








これこそうまく言葉にはできないのだけれど、
いまの自分は、この写真の中に同時に存在しているものたちのそれぞれにひたすらに近づこうとしている状態なのかもしれなくて。
もしかすると取り戻す行為なのかもしれないし、それは単純に思い出すことなのかもしれない。
全部にいっぺんに近づくことはとても難しいから、ただただ憧れているのかもしれない。



まだまだ自己啓発的なところに考えが寄っていってしまいがちです。
自己満足の追求は程々にして、そろそろ、その先に人がいることに関わっていけたらなと思っています
(書くことによる自分へのプレッシャー)




取り敢えず、
朝は早く起きれるようになりたいです

三文の得、の三文について
ある情報筋によると現代価格に換算すると90円くらいだそうです(2014年時点)


90円払うので3月中はもう少しだけ長く寝かせて欲しいです、おやすみなさい



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