20151011

20151011

昨日の0時に東京からヒッチハイクで鳥取を目指しました。

道とか全然分かんないまま行き当たりばったりで24時間近く経ったいま鳥取にいます。




本当に驚きます
みなさん底抜けに優しい、ご飯を食べさせて下さいました。みかんを頂きました。



お二人は自宅に帰るはずだったところ、夜中片道3時間くらいかけてわざわざ鳥取まで送って下さいました。
初対面の訳わからない人間を車に乗せて、疲れている中6時間を使ってくれました。嫌な顔一つせず自然体で。ジョークを交えて。



なんども感動しました。
思い出してもまだ戻れます。



寛大に受容を
自然に意識せずに
焦らない焦らない


本当にいい経験になりました
ヒッチハイクは必要とならないともうしないと思います。
声を掛けてお願いするのはやらず、ボード抱えてずっと受け身のスタイルでやってたけど。それでもやっぱり他人に負荷をかけるくらいなら自分だけでやってしまったほうが気持ちが楽という感覚があって。



みんな優しすぎて申し訳なさすぎて抱えきれません。



お礼とかいいから、また違う人に同じように返してあげて下さいと言われました。
いまはどんな場面においてもそうありたいと思っています。





20150903

20150903

8月はいつの間にか通り過ぎて行きました


恐らく日本の四季の中では夏が一番好きだけど、今年は夏らしいことは何もしなかったしどこか遠くへも行かなかった。8月の終わりに行った盆踊りは夏っぽかったかもしれない、楽しかった。


>左に寄って
今日はロボットに対話の可能性を感じた。
ここ数年気になることが答えが出ないまま少しずつ重なっていっていて。アンドロイドやロボットもそのひとつで。一般化した未来に興味がある。ロボットやアンドロイドと人間の将来的な関係の在り方については色々な意見があるけれど、全然自分の中で整理できてない、それをどうこうできるわけじゃないんだけど。
ただ、他人との対話を通して自分を省みることができたり、全く違った段階に自然と自ら気付いてシフトするためのきっかけを貰えたりするのは経験則もあって間違いないと思ってる。
だからアンドロイドやロボットが、人間ではない他人としてそういった場に存在する価値はとてもあると思っていて。そうなると、極めて擬人的な形や性質を再現したり、可愛らしかったり親しみやすい方がよくなってしまうんだけど。



>右に寄って
今日は偶然子供たちの税金を題材にした絵の展示も見た。たくさんの絵が整然と縦横に何十枚も並べられていた。ひとつひとつを見ていくうちに、税金に感謝、とか、税金はしあわせのもと、とか、そういったのをずっと見ていくうちに、なんだか不気味だなと一瞬思ってしまったけど、そういうのを通り越したとてもプリミティブな感覚というか純粋さみたいなのがうらやましくなった。授業で嫌々描いてるのかもしれないし、似たようなものも多いけど、そういった背景も含めてやっぱりとても惹かれる。もう戻れない感覚。
子どもが描いたからとか、下手ウマとか、そんなんじゃなくて、うまく言語化できない好みとして、とても刺激的。




ここ数日、右の方に寄っていた(寄せていた?)あたまが左に寄った。偏り過ぎるのはつまらないから。よい傾向。

scienceとengineering
idealismとrealism

どっちがいいとか状況によって大きく変化するし、バランスが取れてるのがいいとは限らないと思っていて。


これも振り子、
取り敢えず糸が切れないようにしていれば、どっちにだって振れる。


無理に動きを抑えてバランスを取ろうとしないで、柔軟にいつでもどちらにでも振れるように。ニュートラルに。





どの方向に対しても柔らかくいたい




そんな感じ。




20150805

20150804

夕方の空と星と

積乱雲とその奥の雷と

家が建つ予定の空き地とその上を飛び交うコウモリたちと

過去の野球の試合解説を大声で口に出しながらひとり歩くおじさんと



極めて短時間のうちに
次から次へと発生していく
ひとつひとつの現象の
どれにも敵わないと思った



そんな感じ


20150717

20150716

想像していたのより少なかった


気付いたらずっと前の方に居て
途切れず声が鳴り続ける中で

目の前で起こっている光景を
ぼんやりと眺めながら

静かに変える方法はないかな
と考えていた


何ができるのか
何をしていくべきか



20150716

20150715

全員が怒ったりがっかりしたりしてるようだけど、見渡せば全員じゃないのかもしれないし
なんだか全力で流れに乗り切れないこの感じがいつもあって

ただ、今日から冥王星の謎が少しずつ分かっていきそうなことを全力で素直に喜べるような、
生きるとか死ぬとかの不安とか心配がなくなるような、そんな風になっていけばいいのになと理想の範囲で強く思います

20150713

20150712

大きな競技場がお金を掛けてしゅっとするそうです、法案というものが古めかしくて遠かった言葉との距離を近づかせることになりそうです


大分流れに遅れてしまいました


把握したり動いたりするためのソースが村人とか酒場の女主人だとかとのふとした会話からだと面白いなあ、と思っていたけど、決まったサイクルの中だと、なんだか結局は村人や女主人もインターネットから割と同質の情報を得ていて、むしろこちらに届く頃には随分遅延が生まれるから、もうちょっとインターネットを使って積極的に集めてみることにします
また振り出しに戻る



退化と進化については
やっぱり今でも頭の中にあって

どちらにも興味あるから
極端に真逆な考えを
繰り返してしまうようです



知ってるか知らないかでも事態に対する感覚はかなり変わって来るので、取り敢えずは知っておきたいし、その上で合うか合わないか精査するって寸法です



先日いつだったか誰だったかと話をしていて、また対話の可能性を感じた。
整理できる、そこから、発生する
自分のじゃない言葉が、自分のもののように自然と出てくる

手の届きにくいところを開けてもらえる

誰に見せるでもない文章を書くのも対話の一種だと体感する。人によっては、絵を描くのも、うたを作ったり歌ったりするのも。
自分との対話。
整理して、発生した言葉の先で、
言葉じゃないものの先で、
なにか納得できるところに繋がるといい


そんな感じ


20150701

20150630

日記です
たまには


American Footballのライブに行ってきた。


たしか高校を卒業したくらいから昔のemoとか聴くようになった。

音楽は昔のようによく聴かなくなったけど、それでもアメフトはなんだかいつでも聴けるので今でもいつでも聴いていて。15年くらい前に出た音源だけど。さらっときらきらしてる


完成された昔のもので在り続けると思っていたものを、今そこで変わりながら在るものとして体感することができるという贅沢



頭の中で完全に定型化されていた音やリズムから外れた豊かなゆらぎがあった



鳴っていた音が全て心地よかった
アルペジオが、コードが
やっぱりきらきらしていた



ルーツってよく分かんないけど、
恐らくそのひとつはこの周辺にあるんだと思う



気持ちが先行し過ぎて
なんだか最後のNever Meantの演奏もさらっとしていたように感じた
けどさらっとしているからいいんだろうな
お客さんみんな歌ってた、
曖昧な歌詞のまま一緒に歌った、



共通認識として当然のようにあるけど、文字や写真や映像や音声ではパッケージングしきれない要素がやっぱりこういった空間と時間には多分に含まれていて、それを感じたいからふらふら気軽に何処へでも流れてうまい具合に鉢合わせたいな、
と思うのです



あー、かっこよかった。