苦手な春を 飛び越えた
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前に深夜の野犬たちに追いかけられて世界遺産の街並みの中を駆け抜けた漫画みたいな出来事を除けば、今のところここはやさしい人たちしかいない穏やかなところです。
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はにかんだ笑顔でサプライズなケーキを運んできてくれたあの人も、当人はきっと仕事の一環なのだけれど、仕事だから面倒臭いけどとか、心の底からおめでとうとか、そういったことすら考えていないような、そういったフラットな自然体な人たちなのだと勝手に信じているフシがある。そういった人たちだから勝手に愛着がわく。これまで培ってきた中途半端な知識とか偏見とかによる上から目線ではなく、これまでよりも、自分もそう在りたいという憧れみたいなものの方が大きくなっていて少し安心する。
誕生日にケーキをもらったのなんていつぶりだろう。何かの主役になったり注目されることが未だに苦手だけど、とてもうれしかった。
いますぐにでも誰かの誕生日を祝ってあげたくなった。こういうことの連鎖が全体の目指すところの一つのなんだろうと事あるごとに実体験を通して感じる。昔から言われ続けてきた綺麗ごとかもしれないけど、一瞬でもそういう卑屈を全部ふっとばすような気持ちになる。
から、想像を静かにじっくりと拡張して理解していくよりも、身体を通した経験で一発でがつんと腑に落とすことの方がしっくりくる。
この状態が永久に続くとは思っていないけど。少しでも長続きするように。
Googleのトップページもサプライズでお祝いをしてくれたから、
きっといつもより長続きすると思う。
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ふと、記録と記憶について。
録してという言葉は書き記すという意味だけれど、憶してという言葉はあるのでしょうか。
洞窟壁画を除けば、古代エジプトでパピルス紙が発明されて以来、現代のクラウド上のデータに到るまで様々なものが半永久的に記録されるようになった、といろいろなところで見聞きする。記録が、「安定した形で定着・保存された状態にある情報」だとすると
、「安定していない形で定着・保存された状態にある情報」が記憶に該当するのかどうか。少し違う気がする。憶する記憶はより緩くて曖昧で、定着とか保存から外れたところにある気がする。
市街地を歩いていて何気なしに撮った写真を、偶然じっくり見返していた。
狭い歩道の脇に恐らく無断で敷かれたゴザ、その傍の折りたたんで積まれた新聞紙の紙面には「'stubborn abode'」、Googleは「'頑固な住まい'」と翻訳してくれた。
家主からしたら間違いなく寝食を繰り返す住居であって。これは建築だとか、こんなの建築じゃないとか、そういう議論がどこか遠くで行われていても、きっとこの家の持ち主はそんなの知ったこっちゃなくただ頑なに毎日の生活を続けていくのだろうと思って、1枚の写真の中で全てがぐるぐる回り続けて最終的に繋がった気がした。
こういうことが稀にあると一人で勝手にうれしくなる。よく分からないけど何かつくりたくなる。
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軽く立ち話したおっちゃんにTsubasaとTsunamiは似てるなハハハ、と言われて何とも言い難い気持ちになったけど、苦手な英語は口から出てこなくて言葉の通り何も言えずただ苦笑いした。
もう3月だなと、あらためて思い出す。精密に記録していないけど確かに記憶していること。何もできていない。
地球を緯度方向に回り続ければ、
どこまでも時間を遡ることができるけど、
過ぎてしまったことを後から取り戻すために定着させるよりも、
いまの瞬間といまの空間といまの感覚
を充分に研ぎ澄ましていく。とか。
そういった方向性を憶していきたい。
そんな感じ。
(で今年もよろしくお願いいたします。(忘れていました))
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