20170325

20170325

仙台からいわきへ。

近いと思っていたその距離は、
検索結果が表示されたブラウザの上で、
果てしなく遠いものに感じられた。


瞬間の対義語は永劫だそうだ。
瞬間の新幹線を降りて、永劫のバスに乗りかえる。
初めての道はいつだって果てしなく長く終わりがないように思える。


地方の知らない場所でバスに乗ると、いつも新幹線や飛行機で無意識に飛び越えている間に、どれだけの人や物がそこにいる/あるのかを改めて感じる


近い様でいて
とても遠い


その地域の価値で、アクセスのし易さ、単に空間的なものだけではない距離が変わるのはなぜだろうか、そこに暮らす人たちの想いはどのようなものだろうか。
そういったことを、午後の眠たい陽射しがゆらゆら差し込むバスの中で、ぼんやり考えたりした。


都内の電車にあるような田舎暮らしがどうのとかいう車内広告が苦手です。

時間をお金で買うのが苦手です。仕方なく乗るタクシーや新幹線は未だにあまり好きになれません。

自分のペースで見落とさないように確かめながら進みたい。というわがままです。


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いわきでタイムラインを見た


直後の今は
これまで触れてきた演劇とかライブとか絵とかインスタレーションとか
表現と呼べるものの中でも、とてもとてもよかったように思っています。
もちろん比べて順番を付けるようなものではないけれど。


自分でも把握しきれていない色んな偏見があった上でだけど、本当に素晴らしかった。


一番初めのギターのコードひとつの音響きだけで身体全体で感動した。本当に驚いた。
それこそうまく言語化できないけど、全身の鳥肌が立ち続ける感じ。それがたくさんの場面であった。


何も言える立場じゃないけど、マームと同じような言い回しや、場面のつくり方とか、ところどころにあったけど、そんなの関係なしに演者の皆さんが純粋に活き活きと演技や演奏をしていてずっと引き込まれていた。この、代わり映えのしない、でも一度しかない、いまここでしか経験できない日常が終わらないで欲しかった。

あれだけ舞台に人がいたのに、一人ひとりがしっかりとその人だった。普段通りのその人のように見えていた。


3月の福島のある日のタイムライン、それ以上でも以下でもないように見ようとしてみた。勝手に想像しないようにした。

朝起きて、学校に行って、授業を受けて、給食を食べて、掃除をして、帰って、眠る。+α。いつもの日常。


終わった後のアンケート、
皆さん終始笑顔でこちらも幸せな気持ちでずっと見れました、とか、生きる勇気みたいなものを貰えました、とかそういうありきたりなつまらないことしか書けなかった。
書きながら本当にありきたりだなと思って恥ずかしくなったけど、純粋にそういう気持ちしか出てこなかったからそういったことだけを書いた。


表現の大切さを事あるごとに痛感する。きっと必要だ。例えば生きづらい人が少しでも生きてみようと思えるために。衣食住で補えない部分。




開演前、偶然会場の外壁に言葉を見つけた。






劇中でも近い言葉が繰り返し出てきて、自分の中で勝手に納得いくようなかたちで繋がっていた。


過去からしたら「いま」は未来で
未来からしたら「いま」は過去で


「いま」は「ここ」にしかないから

つべこべ言ってる場合じゃないな。


哲学なんて少しも分からないのに、何かを納得するために、かっこつけてシモーヌヴェイユを読んでいた。真空。不完全。
だけど、
まだ全部手放しちゃ駄目だと思った。まだ悟っちゃ駄目だと思った。
欲望を頼りにエネルギーをぶつけなきゃ、と思った。


あのプリズムを通過した光は
ただ虹色だから、ただキラキラときれいだから、それでだけいいんだな、と思えた



そんな感じ
3月も終わりそうです


そんな感じ


20170309

20170308

苦手な春を 飛び越えた



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2度目のマレーシアは最後の夜になりました。


前に深夜の野犬たちに追いかけられて世界遺産の街並みの中を駆け抜けた漫画みたいな出来事を除けば、今のところここはやさしい人たちしかいない穏やかなところです。


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はにかんだ笑顔でサプライズなケーキを運んできてくれたあの人も、当人はきっと仕事の一環なのだけれど、仕事だから面倒臭いけどとか、心の底からおめでとうとか、そういったことすら考えていないような、そういったフラットな自然体な人たちなのだと勝手に信じているフシがある。そういった人たちだから勝手に愛着がわく。これまで培ってきた中途半端な知識とか偏見とかによる上から目線ではなく、これまでよりも、自分もそう在りたいという憧れみたいなものの方が大きくなっていて少し安心する。

誕生日にケーキをもらったのなんていつぶりだろう。何かの主役になったり注目されることが未だに苦手だけど、とてもうれしかった。
いますぐにでも誰かの誕生日を祝ってあげたくなった。こういうことの連鎖が全体の目指すところの一つのなんだろうと事あるごとに実体験を通して感じる。昔から言われ続けてきた綺麗ごとかもしれないけど、一瞬でもそういう卑屈を全部ふっとばすような気持ちになる。
から、想像を静かにじっくりと拡張して理解していくよりも、身体を通した経験で一発でがつんと腑に落とすことの方がしっくりくる。
この状態が永久に続くとは思っていないけど。少しでも長続きするように。


Googleのトップページもサプライズでお祝いをしてくれたから、
きっといつもより長続きすると思う。


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ふと、記録と記憶について。

録してという言葉は書き記すという意味だけれど、憶してという言葉はあるのでしょうか。
洞窟壁画を除けば、古代エジプトでパピルス紙が発明されて以来、現代のクラウド上のデータに到るまで様々なものが半永久的に記録されるようになった、といろいろなところで見聞きする。記録が、「安定した形で定着・保存された状態にある情報」だとすると
、「安定していない形で定着・保存された状態にある情報」が記憶に該当するのかどうか。少し違う気がする。憶する記憶はより緩くて曖昧で、定着とか保存から外れたところにある気がする。


市街地を歩いていて何気なしに撮った写真を、偶然じっくり見返していた。
狭い歩道の脇に恐らく無断で敷かれたゴザ、その傍の折りたたんで積まれた新聞紙の紙面には「'stubborn abode'」、Googleは「'頑固な住まい'」と翻訳してくれた。







家主からしたら間違いなく寝食を繰り返す住居であって。これは建築だとか、こんなの建築じゃないとか、そういう議論がどこか遠くで行われていても、きっとこの家の持ち主はそんなの知ったこっちゃなくただ頑なに毎日の生活を続けていくのだろうと思って、1枚の写真の中で全てがぐるぐる回り続けて最終的に繋がった気がした。

こういうことが稀にあると一人で勝手にうれしくなる。よく分からないけど何かつくりたくなる。


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軽く立ち話したおっちゃんにTsubasaとTsunamiは似てるなハハハ、と言われて何とも言い難い気持ちになったけど、苦手な英語は口から出てこなくて言葉の通り何も言えずただ苦笑いした。
もう3月だなと、あらためて思い出す。精密に記録していないけど確かに記憶していること。何もできていない。



地球を緯度方向に回り続ければ、
どこまでも時間を遡ることができるけど、
過ぎてしまったことを後から取り戻すために定着させるよりも、
いまの瞬間といまの空間といまの感覚
を充分に研ぎ澄ましていく。とか。
そういった方向性を憶していきたい。





そんな感じ。
(で今年もよろしくお願いいたします。(忘れていました))



20170204

その土地を歩くと

昔の記憶がなだれ込んでくる

身体がジオタグに反応しているような

空間の場所の力