アムステルダムはヨーロッパのニューヨークと呼ばれることがあるらしいことを滞在中に知った。
日本を離れてみるとそんなに珍しいことじゃないと思うけど、そういえば観光客を除いても様々な人種の人々が景色の中に自然といた。
滞在中、用意していった音楽も聴かなかった、本も読まなかった。
帰ってきたその日の夜、宇宙と芸術展に行った。
それぞれの濃度は濃くないものの、古代の天体観測から未来の火星移住まで幅広く。
昔、常陸にうつろ舟が漂流した話。
UFO、と言われて今の人たちも共通認識として想い描く、そのものの形で面白かった。
嘘でも本当でもそんなのどうでもよくて。
飛行機の中で読んでいたピダハンの本の中でも少数民族の宇宙観に触れられていた。
ピダハンには経験したものしか存在しえない。たとえそれが夢に中の経験であっても、それは常に現実のこととして立ち上がる。いつも夢の中だけで出会っている精霊は現実世界にも確実に存在する。
現実と夢の境がないこと。
現実とか夢とかで、時空間やそこでの経験を括ってしまわないから、起きてる時も寝てる時も経験し続けてる。
現実は本当に現実でしょうか。
夢は本当に夢でしょうか。
時々、ふと考えると、自分が何処にいるのか分からなくなる。
足元が不安定になって、揺らいで怖かったけど、それもいいのかもしれない。
我にかえる、ための我は、夢の中でも我なのかもしれないし。
ずっと我であり続けるのだから、我にかえる必要はないのかもしれない。
夢と現実の境がないこと。
夢と現実の境が曖昧な、黄昏時みたいな、そういうところを漂いたい。
だからUFOを見た人にとって、UFOは確実に存在するし、それを全く経験のない他人との共通認識のフィルタに通して台無しにする必要もないと思った。
もし、現実が現実でしかあり得ないのであれば、夢の世界を現実と受け止めて帰ってこれなくなるのは怖いけど。
常軌を逸する、逸しない
ここ何年かずっと、
誰かの見ている風景を覗いてみたいです。
今夜は十五夜で、
満月がきれいでした。
おやすみなさい。
そんな感じ。