20150525

20150524

誰も居なくなった静かな空間で


宙に浮いた高いところで


ふと流れてきた静かな歌で


全身で水を飲んだみたいになった



軽く、かるく




20150519

20150518

今日もお陰さまで、また色んなことが繋がっていきました。
きっと空間が持つ力なんだと思います。自分の中でもそういうことにします。



最近はとても穏やかで、すうっとしています。
この状態がずっと続くわけはないし、バランスが崩れてしまうのは怖いけど。



いまをじっくり味わうしかないかなと思います。
月並みな言葉で言えば、瞬間瞬間を楽しむ、ということに近いかもしれないけど、そうじゃなくてもうちょっとシーケンス的なフェーズの塊でゆっくりじわっと味わいたい感じです。


突然崩れた調和を愉しめるようなそんな耐性が欲しいです。
面白くなってきやがったぜ〜、的な。

ピンチをチャンスに変えられなくてもいいから、ピンチを受容して最終的にピンチと認識しなくすることができればいいです。


心にも身体にも余裕があるとついつい奢りがちなので、今だけでも謙虚に穏やかにいたいです。

この感覚を覚えておいて、イライラしたり追い込まれたりした時に思い出せれば、コントロールできやしないかなと思惑しています。



なんだかスピリチュアルな自己啓発本な感じになってしまいましたが、どうせ日常生活を重ねていけばどっかに落っことしちゃうんだから残念です。
でも、また拾おうとした時には要領覚えてるから、前よりは楽に拾えると信じたいです。

これもやっぱり、瞬間の頻度を上げて一続きにしていく考え方と一緒でしょうか。周波数を高くして短い周期に波をたくさん詰め込むイメージ。そうすると感度を上げてくことがそうだと思うから、現実世界では常に感覚を研ぎ澄ましていけばそうなるはずだから、gainを上げてノイズとして埋もれてしまう小さな音を拾えるはずだから、そうするためには単調な繰り返しの生活で感情のない機械みたいになってたらいけないから、・・・うんぬんかんぬん



自分はスマートフォンで文章を書くと、上から下へ思い付いたことを一方通行で一気にだだだだっといってしまい、脈絡とかなくなってしまうからよくないです。



何にしたって、空間とそこに集まる人たちのお陰です。


お世話になっております!










20150504

20150503

時間があります。
書いて残したいと思っていることは割と幾つかあります。
でも、時間があるので、たいしたことじゃないけど、
たいしたことじゃないことを書いて残します。


最近、早起きして森へ出かけます。
そのことについて。


やっぱり自然が最高、都市はゴミゴミしてて最低、
っていうような偏った考えではまだないです。
と、思うけど、自分の中の流行だから、多少偏ってるかもしれません。
でも、そのことについて。



東京の真ん中の方に住んでいても、
電車に1時間も乗れば色々な森に行くことができる。

守るために、残すために、人為的に整備されているものが殆どだけれど、
それでもそこには木が何本も何本も立っていて、枝や葉っぱがこすれて風の音が聞こえて、それに混じって色々な鳥の声が聞こえる。
柔らかい土の上を踏む感覚とその匂い。360度、視界は緑色で良好。


適当な分だけ日差しが透過された空間は、寒くもなく暑くもなく、
適当な分だけの音量で環境が鳴っている空間は、うるさくも物足りなくもなく、
まさに”適当”なのだと感じる。
”適当”の尺度なんてひとそれぞれで、そこに対峙した瞬間のそのひとの
置かれている状況・心境なんかが大きく影響するとは思うけれど。
少なくとも最近の自分は、この時期の森に対して、ある程度のものを満たしていれば、
どこへ行ってもいつ行っても”ちょうどよい”のだと思う。
雰囲気にのまれているだけかもしれないけれど、そのお陰で”ちょうどよい”状態になっているのならそれはそれで。


”適当”って、なんだか偉そうなので、”ちょうどよい”の方がしっくりくる。
みんな、この”ちょうどよい”が恋しくて、癒されるために森に行きたがるのだろうか。
幾つかの森に行ったけれどすぐ隣が住宅地でも、違う世界に一歩踏み入るための森が、
誰にでも開かれた森としてある。
地域の方々が協力して、みんなの森を維持している様子が垣間見られる。


どうして、自分がいま森に行こうと思い立ったか覚えていない。
そういえば、こじつけかもしれないけれど、小さい頃体験していた環境に近いからというのが一つある。


実家は山奥ではないけれどある程度の田舎にある。
電車も高速道路も、家の近くにはバス停もない。

もちろんライブハウスなんてないから、原付やバスで1時間くらいかけて港へ行って、
1時間弱フェリーにのって、やっとのことで賑やかなところへ出掛けていた。
もちろんもちろん映画館もないから、唯一の市民ホールみたいなところで稀に全国で上映中の大きな映画が1回きり上映される。ドラえもんの新作なんて回ってきた日には、子供たちは狂喜乱舞のお祭り騒ぎ。(のび太くんのおばあちゃんの映画の時に、一緒に行った子供たち全員が号泣してたのを鮮明に覚えてる、あの頃のピュアさはどこに置いてきたのやら)


小学校までの通学路はずっと田んぼや畑に囲まれた道だった。
カエルがいた、バッタがいた、川があった、山を切り開いた坂があった、
昔の防空壕があった、ススキがあった、ひっつき虫を投げたりした、
潰した空き缶をみんなで蹴って帰った。

小学校はぐるっと木で囲まれていて、すぐ裏には山があって、
そこがアスレチックになっていたから、よく昼の長い休み時間に走り回っていた。
そのお陰で足腰が鍛えられたのかもしれない、関係なさそうだけどそういえば骨折とか一度もしたことない。


森の中を歩いていると、木の根っこが出てるとことか、
”ちょうどよい”薄暗さとか、土の匂いとか、音とか。
アスレチックや、遠足で歩いた道や登った山を思い出す。

あと、森ですれ違うおじいさんやおばあさんたちとの、
「こんにちは」
もそうだ。

しつけなのか、自主的になのか、小さい頃はすれ違う人には必ず挨拶するもんだと思ってたけど、いつの間にかそうじゃなくなってて。
でも今でも無言ですれ違う度に、罪悪感みたいなもやもやしたのが生まれたりして。
それこそ、たいしたことじゃないけどなんだか寂しい。
お互い挨拶したいのに、そういうことする環境じゃないからってことで、
それを押し殺してるのだとしたらもっと寂しい。


近くにあったものが、場所が変わって、近くになくなったから、
懐かしいのかもしれません。
近くだったものが、時間が変わって、近くでなくなったから、
残念なのかもしれません。


こじつけだけど、いまはそれがそういうことなのかなあ、
と思うことにしています。


この前は森の中でトカゲを探してた小学生の兄弟が友達になってくれました。
聞けば1万人以上友達がいるとのことで、うらやましい限りでした。
これで友達が2人増えてよかったね、と言われた気がします。

最後は知らない他の子たちも混ざってみんなでサッカーをしました。
そこには何も壁がなくって、初対面の概念がなくって、みんながみんなそれぞれで、
楽しくてはしゃいでしまいました。



だらだらだらだら書いてしまって、本当なら考えを整理して筆を取らなきゃいけなくて、
一晩寝たら考えも変わっているのかもしれませんが、時間があったので思いつくことを長々と書いてしまいました。

地元については、書いていて懐かしくなって、いささか誇張が入っていたり、いつの間にかUFOに連れ去られていて記憶を書き換えられていたりするところもあるかもしれません。
そうだとしたらすみません。



明日くらいからまた仙台行こうと思っています。
少し通いすぎなところがあるけど誘ってもらえて本当にありがたいです。
仙台は杜の都といわれています。



結局は時間が緩やかに流れるのがいいのかもしれません。


そんなに急いで走らなくったっていいから、
追いつこうとしなくていいから、
大きく息を吸って、ゆっくり吐いたら、
そうしたら、自然と歩き出します。



森ブームはもう少しだけ続きそうです。